都城郷招魂塚 〜都城市〜(宮崎県都城市)
この都城郷招魂塚は、明治十年の「西南戦争」で西郷軍に従軍し、戦病死した都城郷(旧都城市内)一番隊々長「東胤正(ひがしたねまさ)」以下、百三十四柱の御霊を祀る慰霊碑です。
明治十年二月二十五日前後に出発した西郷軍は、熊本城の抵抗に前後を阻まれ、苦戦の状況にあった。
援軍の要請に、都城より千五百五十六名が出陣し、田原坂、熊本、八代、人吉での官軍との戦うも、次第に押され、遂に西郷軍は、熊本の決戦に大敗し退却が始まり、同年九月二十四日、西郷一行が籠る城山(鹿児島市)を官軍四万の軍勢が攻撃して戦いは終わった。
この招魂塚は、西南戦争の官軍側戦没者は、官社に祀られたのに対し、西郷軍側は、賊名のみで打ち捨てられていたことで、無念に堪えない遺族や生存者の方々が協力し、建立したものです。
建立にあたっては、戦没者が戦場に持参した品一点を持ち寄って埋め、その上に招魂碑を建て、慰霊祭を行った。以来、今日まで都城郷招魂塚奉賛会による慰霊祭を営んでおられます。
招魂碑正面の題字は、西郷の書の先生である「川口雪蓬(かわぐちせっぽう)」が筆を執られたものです。
川口雪蓬は、西郷が沖永良部島(鹿児島県和泊町)に流罪されている時に親交があり、西郷の書と漢詩の師と言われた人です。
また、同招魂塚敷地内すぐの左側には、「勝海舟」の詩文が刻まれた碑があります。これは、東京在住の従軍者一同の懇請により、海舟が作詩して書き与えた漢詩です。(現在、その掛け軸は都城市教育委員会にて保管されています)