正応寺跡の石塔群 〜都城市〜(宮崎県都城市)

正応寺(しょうおうじ)は、島津荘の本家でもある摂関家(近衛氏)縁の寺として、平安時代の仁安元年(1166年)三井寺(滋賀県)の座主の命を受けた禅慶上人と当地の中郷弁済使永井氏によって、天台宗として建立されたと言われている。
当時の本尊薬師如来像は、天台宗開祖の伝教大師最澄の作と言われ、本堂の他、僧坊十二坊・鎮守神としての日吉山王社があったと言われる。

その後は、時代の遷移とともに当寺も荒廃を重ねたが、近世に入り慶長十三年(1608年)、時の都城領主「北郷忠能(ほんごうただよし)」が寺禄を給し、一族の真言宗宥政上人(ゆうせいしょうにん)をして再興せしめた。

しかし、幕末に至り、薩摩藩の徹底した廃仏毀釈で当寺も廃され、以来、広大な敷地の寺跡は再度荒廃を辿り、古来の由緒ある石塔墓類は、山中に散乱埋没していたが、地区住民によって、宥政上人以下の近世の住僧墓(特に、宥政上人の石塔と言われている五輪塔は約3メートルもあり勇壮な感あり)などが保存され、また、本堂跡と薬師堂跡とともに、今日に至っている。

当地に行き、この広大な敷地にかつての栄華(寺社のため栄華というには相応しくないかもしれませんが…)を伺い見ることができないことに対する烈しい寂寞と哀愁とが自分に湧き出てくるのを抑えられなかった。