「史跡 天満坂 長崎喧嘩騒動発端の地」長崎版「忠臣蔵」(長崎県長崎市)
時は元禄、長崎では珍しい大雪の日の16時頃、佐賀鍋島藩深堀領の武士、深堀 三右衛門と柴原 武右衛門は所要を終え深堀屋敷への帰路中、町年寄 高木彦右衛門の一行とたまたまこの坂で遭遇。深堀武士が雪で転びその勢いで跳ねた泥が高木側の使用人の袴についたことから喧嘩となった。長崎港の警備役である深堀氏と、町の統治と貿易を一手に扱っていた町年寄(役人)とはもともと仲が悪かった。
この後、20時頃、町年寄側が深堀屋敷を襲い、両名を袋叩きにし大刀を奪った。武士の面目を失った深堀武士が、翌早朝、高木屋敷へ討入り、彦右衛門以下6名を討ち果たす。
この事件は、赤穂浪士討ち入りの一年前(赤穂浪士はこの行動を手本にしたらしい。)
深堀側は最初に討ち入った10名が切腹、追加の9名は五島へ島流し。高木側は息子彦八郎は家財没収の上長崎追放。騒ぎの原因を作った使用人9人は全員斬首。